グリフィンドールに入りたい

主に本や映画の感想を書こうかと。プライベートについてどれくらい書くかは思案中。

他人の苦労を出汁にしたい。

 自分よりも大変な思いをしている人の存在を知ることで、元気が出るということがあるのだと思う。もちろん限度はあるのだけれど、やはり人のやる気は他者の頑張り具合にかなりの部分影響を受けるのではないか。だから、意識的に他者の苦労を自分の糧にしていきたい。

 まだまだ若造である自身の経験を振り返ってみても、部活動や受験勉強、アルバイトなどで周りの士気や忙しさに大きく影響を受けてきた。友人が寝る間を惜しんで勉強をしていれば、受験勉強を怠ける自分が恥ずかしいような気分になった。部活動の練習を毎日サボらずに続けたのは、先輩が自分以上に練習していたからだし、同期と互いに励まし合ったからだ。

 twitterを見ていると、他者の苦労を提示されたところで何の意味もないという論が受けているようだ。特に企業での上司と部下や先輩と後輩の関係の話において、そのような論がよく流行っているようだ。

 私は、企業は法律に則った労働環境を整えるべきだと考える。それに、根性論が蔓延るのは害悪だとも思う。だが、他者の苦労に意味なしとの論調はあまりに一方的なように感じる。確かに他人の苦労を引き合いに出されて、努力を促されることは鬱陶しいことが多い。しかし、それはそもそもの人間関係ができてないからではないのか。上司や先輩との関係に問題があるのではないのか。

 また、取り組むべき課題から目を逸らすために、他者の苦労を引き合いに出されるのも腹立たしい。それは理解できるのだ。だが、その場合でも問題なのは他者の苦労を引き合いに出していることそのものではなく、取り組むべき課題から目を逸らしていることではないのか。

 人間関係が良好で、目の前の課題に的確に取り組んでいてもなお、苦労しなければならないときに、他者の苦労を引き合いに出されたとしたらどうだろう。おそらくそこに生まれるのは連帯感ではないのか。勇気ではないのか。

 他人の苦労話自体が害悪ではないのだ。上司や先輩の無能や怠惰の言い訳にされるのが腹立たしいのだ。それならば、上司や先輩に言われるよりも先に、自発的に他人の苦労を思う思考回路をつくればいいのではないだろうか。逆説的だが、この思考回路こそが他人本位のようでいて自分本位であり、自分を大事にすることになる。上司や先輩の能力や彼らとの関係から極力影響を受けずにモチベーションを生み出そうという考え方なのだから、よっぽど自分本位な思考である。

 私は結局のところ自分が可愛くて仕方がなく、自己中心的な人間だ。だから、上記のような思考で、他人の苦労を出汁にすることで、仕事に邁進し、成長していきたい。